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旺文社

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株式会社Doorkel 代表取締役 鈴木陽平さんサムネイル画像

interview

先輩たちの物語

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『小さなきっかけ』と『小さな勇気』で海外へ。グローバルな環境で過ごした学生時代


記念すべき、先輩たちの物語第1回目としてインタビューに答えて頂いたのは、株式会社Doorkel 代表取締役 鈴木陽平(すずき ようへい)さん。現在は留学生、教育機関、奨学金提供期間の三者を繋げるSNS「SchooLynk」を運営し、留学したい学生の支援を行っている。高校・大学と学生時代を海外で過ごした鈴木さんが世界に目を向けたきっかけは、小学3年生の時に家族で行ったラスベガス旅行でのあるできごと。小さなきっかけから自らの人生を切り開いた鈴木さんにお話を伺いました。

Profile
鈴木陽平
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香港大学 経済学部

鈴木陽平さん

1990年、岐阜県関市生まれ。高校時代をオーストラリアとイギリスで過ごし、イギリスの高校では国際バカロレア資格を取得し、卒業後、香港大学経済学部に進学。外資系戦略コンサルティング企業にて、自動車関連の日系企業の海外戦略立案に従事したのち、株式会社Doorkelを設立。学生の支援を行なっている。

https://www.doorkel.com/

01
interview

小学生〜高校生時代を振り返って

──どんなお子さんでしたか?(好きだったこと・現在でも続いていること、など)

鈴木さん 外で遊んでいることが多かったですね。家の周辺には自然が多く、山の中で友達と本格的な秘密基地を築いたり、小学生ながら自分の住んでいる関市から名古屋まで自転車で行ってみたり。好奇心旺盛な小学生だったと思いますね。

英語と出会ったのも小学生の時でした。家族でラスベガスへ旅行をした際に、父はカジノへ、母と姉妹は買い物に行ってしまい、僕だけやることがなかったので、ラウンジでアメリカ人のお兄さん達がビリヤードをするのを眺めていました。すると、彼らが「一緒にやろう」と誘ってくれて、交ぜてもらうことになりました。英語は全く解りませんでしたが、とても楽しい時間を過ごせました。その出来事から「自分も英語を話せるようになりたい」と思い始め、帰国後、すぐに母親に「英会話教室に通わせて欲しい」と頼み込みました。

今まで自分が見てきた世界が小さく感じ、広い世界へ踏み出すための武器として『英語』が絶対に必要だと感じましたね。勉強をほとんどせず、野球に没頭していた中学時代にも英語だけはずっと続けていました。「ラスベガスで出会ったお兄さん達みたいな人と英語で話せるようになりたい」という、そのモチベーションだけでしたね。

──海外への進学を決めたのはいつごろでしたか?

鈴木さん 海外の高校に進学しようと決めたのは中学2年生の頃でした。硬式野球のクラブチームに所属し、本格的に野球に打ち込んでいましたが、肘を壊してしまい、やめざるを得ませんでした。目標を失ってしまい、どうしようか悩んでいましたが、海外への憧れは消えておらず、「じゃあ海外に行こう」と考えました。

それから自分で当時の遅いインターネットを使い、どうしたら海外の高校に進学できるのかをとにかく調べました。当時はほとんど情報がなく、両親の説得にも苦労しましたね。進学の費用面や安全面で父親や担任の先生から反対をされましたが、どうしたら進学費用を集められるだろうか、と自分で考え、様々な方にコンタクトをとって話を聞きました。その中で学生の進学を金銭面でサポートしてくれる奨学金団体や個人の方々と出会え、最終的にそういった方々と母親を繋ぎ、支援して頂くことができました。 家族の支援も大きいですが、その方の支援のおかげもあり、高校からオーストラリアに進学できることになりました。

入試試験は、電話面接が2回と英語・数学のテストがありました。英語のテストに不安が残り、心配でしたが面接試験で聞かれた「最近読んだ本は?」という質問で、たまたま読んでいた、村上春樹さんの『ノルウェーの森』の話を出したところ、話が盛り上がり、それのお陰で合格したと今も思っています。読書は大切ですよ。

img-suzuki-02

──海外での高校生活はどうでしたか?

鈴木さん 高校時代はオーストラリアで1年学習した後、支援してくださった方の勧めもあり、『国際バカロレア』というプログラムを提供するイギリスの全寮制高校に転入しました。授業は学生間での議論が中心で、暗記型の授業の日本とは大きく違い、慣れるまでとても苦労しました。

例えば「第3次世界大戦を起こさせないために今の国のリーダーは何をすべきか?」など、答えのない問題に対してディスカッションする授業が多かったです。議論の題材に関する自分の意見を持つにあたり、クラスメイトにも意見を聞いたりしました。1学年100名程在籍し、50カ国以上の人々がいたので、国々によって違う考え方はとても新鮮でした。

──どんな将来や夢を思い描いていましたか?

鈴木さん 「日本だけでなくグローバルな仕事をしたい」「まだ世の中にないものを自分で生み出したい」といった、抽象的ではありましたが、目標は常に持っていました。

当時はまだ具体的な職業のイメージはなかったですが、身につけてきた語学力と築いてきたバックグラウンドを活かして、「広い世界を舞台に挑戦したい」という気持ちは常に持っていました。


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interview

大学時代を振り返って

──どうしてその学び・学校を選んだのですか?

鈴木さん 高校で履修していたビジネス経済科目の1番好きだった先生が「これからはアジアを起点に世界経済が動く」という話をしてくださり、「自分もアジア人だし、行くならアジアでトップの大学を目指したい」という気持ちになり、香港大学を選びました。大学は国際バカロレアの成績を使い、面接試験を経て入学しました。いま思うと、国際バカロレア資格は、グローバルで大学検討をする際に使える最高のパスポートだと僕は考えています。また、面接でも自分自身の意見を述べる、国際バカロレアの授業スタイルが役に立ったと思います。

──高校卒業後の進路を決める際、ご家族とはどんな話をしましたか?

鈴木さん 基本的に「自分のことは自分で決めなさい」という方針だったので、幼い頃からそうでしたが、自分の進路については両親には相談していませんでしたね。ただし、決めたことに対して、「それはなぜなのか?」ということを聞かれることは多かったです。

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──在学中どのようなことに打ち込みましたか?

鈴木さん 大学では、講義の後にチュートリアルという少人数の授業があり、講義の内容をベースに議論をし合いました。この授業での振る舞いもかなり成績に影響するため、講義の復習、宿題をして授業に臨んでいましたね。

また、大学でも『新しい挑戦をする』というのをテーマに掲げ、様々な取組みをしました。アジアについてより深く理解するために北京に1年留学をしたり、夏休みの時間を使って1人で東南アジアを横断してみたり。その他にも、アートギャラリーで絵画を販売する通訳などもしました。

2011年の東日本大震災が起きた際には、日本人で募金のプロジェクトを発足し、支援金を集めたりもしました。いま振り返ると「やったことがない」ことをあえて選んで行動していたように思います。



このように国際色豊かな学生時代を過ごしてきた、鈴木陽平さん。第2弾の記事では、卒業後のお仕事や現在の取り組み、今後の展開についてご紹介します。

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